まだ、途中

途中です。働いてラジオ聴いて日記書いてます。@madatotyuu

3月28日(火)

7時過ぎに起きて、cnannの最終回を聴いた。通常通りの放送。番組最後、初回の挨拶から始まり、それまで盛り上がった場面をまとめたダイジェストが良かった。始まった時の、終わることを少しも考えていない挨拶を最後に持ってくる構成素晴らしい。また始まっていくんだと思った。

日中、2つくらいハッとする思いつきがあったのにもう忘れた。仕事中だからメモもできないし、というか仕事中にハッとすんなよな。

人間について。体調が悪い様子を人に見られたくなくて、体調が悪くなるとまあまあ仲の良い友達とかでもそばにいて欲しくなくて、身内でも結構嫌で、とにかく1人になりたくなるのは、人前で気を張りすぎているからかもしれない。人前で人の形を保てなくなるのが怖くて、だから私は飲酒もできないのかもしれない。張ってる気を緩めるところを人に見られたくない。裸になるよりも一層辛い。人に会うことへの辛さはこの気の張りよう、どうにか上手くやらなきゃって気持ちからだろう。で、だから、上手くやらなくてもいいよ〜なんてことは無理で、いくらそう言われたって私は上手くやろうとする。実際上手くやれてなくても上手くやろうとする。こういう張り詰めた気が、人にももちろんバレてて、私をなんだか扱いにくい人にさせているのも分かっている。そんなことは小学5年生の頃から分かっている。それでもこれをやめられない。本来的に人を信用できていない、味方が1人もいないと思っているのかもしれない。私が人に何か与えられなければ、人は私などに見向きもしないと考えている。それって私が人に対してそう思っているってことなのかなって、もう20年近く悩み、本当にそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。偽善を善としようとも思うが、偽物であることは自分自身は分かっている。いや、こんなことはもうとっくに皆分かりきってて、損得OK、当たり前の義務教育として認識し、で、どうする?ってフェーズにいるのだろうか。私ってもしかして紀元前みたいな悩み方してるのかな。人にこういう話は滅多にしないが、一度親に話してそんなこと考えるのは暇だからだ、家事でもしろと言われてショックを受けた。でもそうなのかもしれない。考える暇もないほど動いていればそんなこと思わないかも。そうして気付けば死んでるのかも。でもそれはそれで幸せかもしれない。

最高の離婚を見てたら、光生って不器用なのに人と関わろうとしていて本当に偉いなと思った。不器用で変でも一生懸命で愛らしい。みっともない姿を人に晒した方がまだマシじゃないの。って、見た時は思う。9話見てたら、当時は気にならなかった、ドラマをヒットさせるため世相を考慮した台詞が意外とあるなと思った。少し前のことだから、今とは違うなって気づいたのかもしれない。

最近体重を減らしたくて糖質制限してるせいで餌みたいな食事をしている。やりたくもない腹筋ローラーをしていて辛い。運動のアンチなのに...。体重が日によって1キロくらい余裕で変わってしまう。ちょこちょこ作業して日記祭用のチラシを作成した。

近畿地方のある場所について」を読んでて、私はモキュメンタリーがすごく好きなのかもしれないと思った。現実と虚構が入り混じる様は昔から好きだったけど、モキュメンタリーという形式が1番その面白さを味わえる。作品に固有名詞がたくさん出るのが好きなのも、そういうところからなのだと思う。

1時頃就寝。