まだ、途中

途中です。働いてラジオ聴いて日記書いてます。@madatotyuu

9月16-17日

9月16日(土)

0時過ぎ起床。寝てからシャワーを浴びて、ヴィレバンダイナーでお昼を食べてから夫を送り出す。下北で1番評価の高いハンバーガー屋さんはヴィレバンダイナーです。霜降り、三四郎のANNを聴きつつ、やる気が降ってくるのを待つ。やる気にはならないけど、机に座ると作業に入る体制になって、ポチポチ文章を書いていた。28個のメモを一つにまとめればOK。

表紙にホロの箔押し加工をしたいと思ってたけど、費用=販売価格が高くなりすぎるのと、使ったことない印刷会社に頼む不安とでと悩んで、紙質をキラキラしたものにして費用を抑えることに決めた。紙の見本を請求し、仮に表紙を作ってみたら結構楽しくて、6種くらい案ができた。買ってもらえる可能性を増やすためにできるだけ安く、でも手に取りたいものに仕上がるといいなといつも思っている。でもこれは自分に稼げる本職があるからできることだとも思う。

 

9月17日(日)

0時過ぎ起床。ふるさと納税でもらったハムを食べたりポテチを食べてたら昼ごはんがいらなくなった。生活が終わっている。夫が昼寝をしている間に作業を進める。

夜になって、近所の神社のお祭りを見に行った。小学生がやたらと多い、地元の祭りだった。大道芸のショーが催されており、小学生たちがすごい勢いでピエロを煽っていて笑ってしまった。五兵衛餅が私の次の次の人で売り切れていた。ムーンアートナイト下北沢のでっかいうさぎの展示を見てから帰宅。

なんとなく聴いたPodcast「となりの雑談」でプール理論の話をしていて、とても気になったので前後数話聴いてみた。足元が崩れるような、地面が底に沈み続けるような不安が頭をもたげて眠れなくなる。私がいつも、自分は一定の枠の中で最良を目指すようプログラムされた人生だと思っていたことは、自分が選んでしまった設定なんだろうか。楽しくなくても、苦手でも、とにかく無理をして成立させるのが仕事だと思っていたのも、選んだ設定なのか。自分1人の時には自分が快適になるように行動できるけど、他者と関わると人を優先するから疲れてしまって関わりたくなくなる、人の車に乗せられて遠くに連れて行かれる気がするのも、自分のせいなんだとはうっすら思っていたけど。自分の欲に従うことをサボっているからこうなんだと思う。自己肯定感にも繋がってくる話だけど、私は家庭環境が悪かったわけでもないのにどうしてずっと辛いのだろうと思っている。母は愛情こそかけてくれたが、すごく忙しくて私の感情を大袈裟だとあしらうところがあった。母のことは素晴らしい人間だと思うし、よく頑張って家事育児仕事をこなしていていたから、それ以上求めるのは無理な話だと今でも思うけど、自分の感情など無視されても仕方のないものだと思い込む基盤が作られたのだと思う。それで、自分自身にも自分の感情を大袈裟だと思い込むようになり、無視してしかるべきだと考えるようになった結果、やりたいこともなく、社会のためになることを選ぶようになった気がする。やりたいことをやっていそうな人に嫉妬したり、どうして私だけと恨み言のように思うのは、自分の設定を自分で誤っていたからかもしれない。そうだとして、どこから変えていけばいいのだろう、少しずつ人に頼ったり、残業をするのをやめてみたり、仕事を引き受けなくしたり、そういういつもと違うことをするのは面倒だな、まだ頑張らなきゃいけないのかと、すでに疲れている。