まだ、途中

途中です。働いてラジオ聴いて日記書いてます。@madatotyuu

5月31日(火)

今日も眠い。数ヶ月寝足りない気持ちが続いている。フワちゃんのANN0を聴きながら出勤。

フワちゃんはANN0になってから本当に頑張ってるしおもしろい。もう普通にファンである。

今日はそんなにやることないかなと思い、職場に着いた瞬間に、上司に今日は午後休みますと伝える。意外とやることはあったけど、午後帰るぞ!と言う気持ちでこなす。無事に12時過ぎ退勤。

新宿で少し服を見て昼ごはんをねぎしで食べて1人カラオケする。気づいてなかったストレスに気づく。30分延長してしまった。1人なのに予想外に盛り上がるなよ。

家に帰って断片的なものの社会学を読む。大学では社会学部だったので、社会学こんな感じだったわ〜と懐かしい気持ちにもなった。筆者の繰り返す、分類してある程度文脈の中で語ることも学問として大切だが、それに溢れてしまう些末な出来事こそ心が惹かれるというのは、とてもよく分かる。タイトル通り文章も断片的なもので、瑣末な記憶が途切れ途切れ挿入される。つい文脈や意味を考えることで、はみ出してしまう出来事をその枠に納めようとしてしまうけど、出来事そのものは意味を持たないし解釈すべきものではない。それをそのまま受けとめる、残す、ということは意外と難しい。人は解釈したがる。意味をもつものだと信じないと生きることが辛くなってしまうからだと思う。

本の中で結婚について何度か出てきたけど、私も結婚式について思い出すことがあった。

自分自身は結婚式なんて絶対にしたくなかったのだが、母親がどうしてもやってほしいと懇願するので親孝行と思って、かなり小規模な式を行った。やってみたらやってよかったと思うものだろうと考えていたが、やった後ですらやらない方がよかったと思った。式自体はつつがなく行われたし、友人2人と母親からもらった手紙は宝物だけど、自分たちのために祝ってもらうことの申し訳なさが最後まで拭えなかった。そのことを、誰にも言えなかった。

むしろ記憶に残っているのはその翌日で、夫と2人でディズニーランドに行った時のこと。台風が近づいているので18時に閉園するという、珍しい日だった。2人とも疲れていて眠くて仕方なかったので、何も考えずトムソーヤ島の近くのカヌーに乗り込んだ。15人ほど乗車して、自分たちで手漕ぎするというもの。出発した時には晴れていたのに、すぐに土砂降りになった。後にも引き返せないくらい進んでしまったので、一周漕ぎきるしかない。けど、もうカヌーに乗っている場合ではないくらいの土砂降りである。皆準備がよくレインコートを持っており、カヌーの上でサッと羽織り出す。私もポンチョを持っていたのでそれに加わった。即席のカヌー集団なのにとても連帯感があった。遭難したカヌーを橋から見守る人々がたくさんいた。もはや見世物になるくらい、私たちはディズニーランドでサバイバルしていた。一周漕ぎきった後には何事もなかったように散り散りとなっていった。私はあの一瞬の遭難と連帯感をよく覚えているし、思い出してしまう。

夜には読み終えて、仕事から意識が引き剥がされたまま眠った。